2008年 10月 09日
祖父母の写真
宗禅寺の はとこが、先代の住職の古いアルバムを引っ張り出してきてくれた。
昭和10年代、戦前・戦中のセピア色の写真だ。
私の父方の祖父は、明治生まれにしては背が高く、ハンサムだった。
孫の中でも特に私を依怙贔屓して、それはそれは可愛がってくれた。祖父の
膝の上で、晩酌のウイスキーのストレートグラスに指を突っ込んで舐めていた
記憶もある。鯨のベーコンや蛸の刺身などの酒の肴を、私の口にだけいれてくれ
ていた。
詳しい話は聞いていないが、満州に渡って財を成したらしい。(見事に何ひとつ
残っていないが…笑)関東軍慰安の興行など取り仕切っていたこともあり、お相撲
さんの肩に載せられた幼い父の写真は、父の名前入りの化粧まわしを着けていたし、
軍服を着てHarley-Davidsonにまたがり、サイドカーに父が乗っている写真も記憶
にある。私のプロデューサー魂は祖父譲りか?
昭和12年。ハルビンのSato写真館で撮られたもの。
中国服を着せてもらって、得意げな感じ。
右端が祖母、椅子に座っている男性が祖父、祖父母の間にいるのが父だ。
祖父は祖母に一目惚れして、まだ何度も会わないうちに、強引に結婚して満州に
連れて行ったらしい。貧乏な家に生まれた祖母は、半ば略奪されたとはいえ
ハンサムでお金持ちの祖父に、まんざらでもなかったのだろう。
満州での生活は、何人も使用人をかかえて、それは贅沢なものだったらしい。
椅子に座っている女性は、祖母の実母、私の曾祖母さんだ。
祖母が長女を産んだ時、産後の日達が悪かったため、越後湯沢にいる曾祖母を
満州に呼び寄せたらしい。自分の娘のためとはいえ、新潟から一人、飛行機に
乗って満州に渡った曾祖母も、なかなかの人物だろう。祖母の横にいるのが、
父の双子の兄だ。
写真の裏に「昭和十五年一月元旦 撮影ス」と書いてある。
父の双子の兄は病気で亡くなり、妹と弟、そう幼い頃の叔母さん叔父さんの
姿がある。それにしても、いいお洋服着てるなぁ。
さて、母方の祖父母も祖父の一目惚れから、強引に結婚にもっていったらしい。
無口な祖父は、畑仕事をしていた祖母に一目惚れしたが、自分から声が掛け
られず、日増しに恋心が募るばかり。祖母は宇野千代さんと同じ、岩国高等
女学校を出て、○○小町と言われた美人だ。他所へお嫁に行かれてはと、
いてもたってもいられないが、どうしても内気で話ができない。地元の実力者
であった曾祖父に頼んで、有無を言わさず祖母をもらいに行ったそうだ。
長男がお腹にいたとき、曾祖父は祖父を連れてアメリカに渡った。残された
祖母宛に、「我が第二の祖国、カリフォルニアより…」とから度々ハガキが
届いたとか。そして、アメリカと戦争が始まる前に、豆農場で財を成して、
岩国に帰ってきたそうだ。
二人の若い頃の写真は見たことがない。本家にはおいてあるのだろうか。
もっと話を聞いておきたかった。祖父母の歴史に興味が出てきた頃には、
もう、その人はこの世にはいないのだった。
祖母は96歳で亡くなる直前まで、電子辞書で言葉をチェックしながら、短歌
を詠む人だった。一時期家族と離れて祖父母と暮らしていた私は、祖母からは
いろいろな話を聞いたが、祖父と話をしたことはほとんどなかった。
いつもニコニコ笑っているだけで、本当に無口だった祖父のことを、私は
何も知らない。
母は、家事手伝い・花嫁修業、36回のお見合いの末に、当時東京で就職して
いた父との縁談が来て、「結婚したら東京に住める!」という理由で結婚した。
その後の人生については、娘として、同じ女性として、しかと見つめてきたつも
りだ。
自他共に認めるかなりのマザコンである私は、誰彼構わず、母の美しさと賢さを
自慢し、写真を見せびらかし、語り伝えている。
子供がいない、そして孫もいないであろう私はどうだろう…。
誰か、私のことを懐かしく、誇らしげに語ってくれるだろうか。
……せっせとブログを書き残しておこう。